川辺仏壇の由来/特徴

伝統を伝える 川辺仏壇の由来

南さつまを雄大に流れる、万ノ瀬川。
その源流のひとつが川辺町を流れる清水川です。
流れに沿って高さ15m 長さ500m の岸壁に、麿崖仏がきざまれています。

川辺磨崖仏 梵字

上もその一つです。ごらんの写真では、中ほどに三つ円形に見えるのはインドより伝えられたという梵字です。
字の意味は右から順に薬師如来、彗星、不動明王ということが近年、学術調査によりあきらかになりました。
成立当時は五字であったようですが残念ながら羅星と毘沙門天の二字は消失し現存していません。

成立した年代は遠く、鎌倉時代中期、弘長四年(西暦1264年)の作といわれ、この年は夜空に巨大な彗星が出現し、世人を驚かせたことが文献によって確認されています。

磨崖仏にはほかにも、10m30cmもの大きさの大五輪塔(世界最大級)、宝筐(ほうぎょう)印塔、板碑などが刻まれ、平安末期から明治時代にいたるまでの川辺の地の信仰心の篤さを物語ります。
川辺磨崖仏 地図

 

 

お仏壇に関するもので現存するのは、延元元年9月6日(西暦1336年)と記された漆塗りの位牌があります。
薩摩地方は島津藩主による一向宗の禁制(西暦1597年)と明治初期の廃仏毀釈により、多くの仏像・仏壇が失われた経緯がありますが、それでもなお信仰は根強く残り、それがいわゆる隠れ念仏のかたちをとり、見かけはタンスで扉を開くと金色さんぜんとした仏壇が内包されたものが作られました(東本願寺鹿児島別院に保存)。
hotoke

 

 

鹿児島では洞窟のことをガマと言い、今でも川辺仏壇のガマ型にはその要素が色濃く残っていると言われます。
近年になって、信教の自由が許されると(明治9年9月)、この地でも公然と仏壇製作が始められ(池田某)今日の川辺仏壇の基礎となりました。
その後、仏壇産業の隆盛と、他産地への研鑽のための交流と修行がますます盛んになり、今日に至ります。
明治時代の川辺仏壇初期の川辺仏壇